薔薇の季節になりましたね。私のお散歩コースに、通り沿いに、いろいろな種類の薔薇を植えて、通り過ぎる人の目を楽しませてくれているお宅があります。この季節は、丹精込めて育てられた色とりどりの薔薇が咲き誇っていて、ものすごく美しいのです。美しいものを見ると、それだけで心がパッと明るくなりますね。どなたがお世話をされているのかわかりませんけれど、薔薇に対しても、道ゆく人に対しても、「愛」を感じます。いつもとても癒されています。ありがとうございます!
こんにちは。
みずがきひろみです。
ネガティブな感情ってね、疲れます。
感じたくて感じているわけではありません。
なので、「お願い、そんなこと言わないで!イヤな思いをしたくないんだもん」と、不機嫌、不愉快を相手のせいにしたくなります。
意地の悪さやズルさ。
どっちがエライ、どっちがスゴイ、と競る気持ち。
あんたなんか大したことないでしょ?と言われたような気になったり。
自分のダメさを繰り返し指摘されているなぁ、と思うとき。
なんだか攻撃されている気持ちになる、とか。
ありますよね。
やり過ごそうとしても、そこは相手も負けていなくて、こちらが傷つくまで執拗にくりかえされることだってあります。
あぁ。このズルさ、この意地の悪さ。この攻撃性。
見えなければいいのに、感じなければいいのに、なんて思ってしまいます。
やり過ごすのも、売られたケンカを買うのも、エネルギーをいっぱい使うから、疲れるんですよね。
1. 自分の中にないものは見えないし感じないという真実
ホントに、ホントに、ホントに。とっても残念なのですが、相手は「鏡」なのです。
見たくないし、認めたくありませんけれど。
もう、すごく残念。
「私、絶対に、あんな意地悪していません!」。
わかります、わかります。
多分、されていないと思います。
「しない」と決めて、ものすごくご自分を戒めてこられたと思います。
でも、相手の意地の悪い気持ちが透けて見えちゃったということは、そういう「気持ち」を知っているということ、なんですよね。
「知っている」から、それがあることが「わかる」のです。
態度に出したことはないかもしれません。
言葉にしたこともないかもしれません。
でも、心の中にあると、誰かからそうされてしまうことは、まま、あります。
仕返しをしたくなることもあります。(←今度は、やっていい十分な言い訳があるぞ!)
でも、どちらかといえば、相手を悪者にして、自分が「かわいそう」な人になるパターンを選ぶことが多いかも、です。
こういう時、もしかしたら「私、かわいそう」という気持ちを感じたかったのかもしれない、と私は考えてみます。
私、同情して欲しかった、かも。
もし、そうだとするならば、なぜだろう、と。
多くの場合、それは、自分が自分の味方をしていないから、なんです。
自分が自分を、斜め上から見下ろすように見ていたり、
自分のことを「大したことない」とディスっていたり、
自分に自信が持てないから、ズルしたい、誤魔化したいって思っていて、
そんな自分の味方なんかできない!
と思っているから、
誰か他の人に味方になってもらわなければ困るんです。
そうすると「かわいそう」な人にならなくちゃいけないんですね。
私がズルいヤツだ、とか(←それはそうかもしれませんけれど)、
あなたがズルいヤツだ、とか、
そういうことを言いたいのではありません。
長く心理学を学んでいると、そういうところは、多かれ少なかれ、みんなの中にあって、別に驚くようなことではないのです。
パートナーシップも、長いおつきあいになれば、そんな身も蓋もないところをお互いにさらけ出します。だから愛せないとか、愛されないとか、そういうことでもありません。(←これはいいところ!、ですね。)
おさえておきたいポイントは、
ネガティブな感情をぶつけられた、もしくは、誰かに対してネガティブな感情をもってしまったとすれば、それは、
自分についても、他人についても、何かと「いい」とか「悪い」とか、「判断」をしているよ!
ということで、それは、
自分のことを「まぁ、いいか」と受け入れられていない
ということなんです。
ふー。
要するに、ネガティブな感情を感じる時というのは、自己愛が足りていないとき、なんですね。
なので、大事なことは、相手に反撃するかやり過ごすか、ではなくて、
自分を承認できているか、自分が納得しているか、自分を好きでいられるか、なのです。
もし、十分に、自分を受け入れられていたら、相手の多少不愉快な態度も、ゆとりと寛容さで受け止められるはずなんです。
少なくとも、理屈上は、ね。なかなかハードル高いですけれど。
ちなみに心理学では、このあたりの話は、「投影」と「投影の引き戻し」と言います。
2. ネガティブな感情は「危険」を知らせる「アラーム」
ネガティブな感情は、「傷つくかもしれない!」という「危険」を知らせる「アラーム(警戒信号)」です。
過去に、似たような状況があって、そのときは「傷ついたぞ」と心のアーカイブが危険を知らせてきているのです。
つまり、過去の、似たような状況が起きたときの傷がまだ癒えていない、のです。
まだ、乗り越えられていないので、あのときのようなことがあるとひどく傷ついてしまうから怖い、と心が言っています。
ということは、あのときの古傷を癒すチャンスでもあるんです!
「あのとき」、何が辛かったのでしょう?
「あのとき」、あなたは、何をわかってもらいたかったですか?それは、誰に?
「あのとき」、あなたは、どんな力を使えていたら、相手を助けることができましたか?
そんなことを考えてみましょうか。直感を働かせてみてください。
「あのとき」ひどく傷ついてしまった「あなた」に、しっかりと共感し、悲しみを受け入れてみてください。
「あのとき」、あなたはうまくできずにひどく傷ついた自分を、自分の心から追放しました。
でも、その自分を、もう一度、自分の心の中に戻しいれましょう。
上手にできなかったことがあったかもしれませんけれど、精一杯やったのではありませんでしたか?
あなたが追放した自分こそが、一番、がっかりし、傷ついていたのではありませんか?
ネガティブな感情は、そんなあなたの「痛み」のありかを知らせる「アラーム」です。「もう、あんな思いをするのはイヤだから、これ以上、(人に)近づかないようにしよう」と思うのは、当たり前なのです。
ただ、それをそのままにしていると、ずっと人に近づけなくなってしまいます。
危険信号を受け取ったら、私たちは選ぶことができるんです。
近づかない。
もしくは、
そこにある地雷を撤去する。
「癒し」は、この地雷を撤去する作業です。
撤去するときに使う方法が、「許すこと」なんです。
3. ネガティブな感情が「アラーム」ならば、通常モードは「何」?
もし、ネガティブな感情が危険を知らせる「アラーム」だとしたら、ネガティブ感情は、異常事態を知らせてくれている、ということ。
では、通常モード、本来の日常は、何なのでしょう?
もう一度、ネガティブな感情は、「愛」がないときの感情。
では、通常モード、本来の日常は、何なのでしょう?
そうなんです。
「愛」があるのが、フツー。
私たち、どうもそう思っているんです。
「愛」があるのが、フツーなのに、こんなに「ない」ってどういうこと???!!!
って怒っているみたいなのです。
「ここ」にもない!「あっち」にもない!
と、「愛」がないところを見つけては、「ある」べきものが「なーい!!!」と怒っているようです。
それくらい、本当は、世界を「愛」でうめつくしたい、と思っているのかもしれません。
「愛がない」と嘆いている人ほど、
「愛があるのが当たり前」と思っている、「愛」をいつも感じていたい人、なのでしょうね。
自分ば見たい愛が「ない」と怒っていたのが、ひょんなことからそこに「ある」愛に気づいて感謝できると、世界は途端に「ある」愛や優しさを、次々と見せてくれるようになります。
アバンダンスは、そんなときに見える心の世界の豊かさなんです。
感情について書いています。よろしければ、この前段も、お楽しみくださいませ。
あなたが、本来のあなたらしさを生きることで、人生を楽しめますように。
今日も、幸せ。明日も、幸せ。そんな、ずっと続く幸せを見つけられますように。
love and abundance,
みずがきひろみ