去年から今年にかけて、大きな変革の波が来ている人が多いようですが、我が家もご他聞にもれず、揺れに揺れています。人生、何度目かのガラガラポンの真っ最中です。
こんにちは。みずがきひろみです。
ご訪問いただき、ありがとうございます。
経験的に、大波が来ているときは、流れに身を委ねた方がいい、プロセスに逆らわない方がいいと知っているので、あれこれと手放しオンパレードになっています。
服や靴などのモノの断捨離(まだまだありますけれど)、人間関係の断捨離、感情や思い込みの断捨離などなど、大切だったはずのものに見切りをつけていく作業が続いています。
次に、何が入ってくるかわからないのに手放すのは、とても勇気がいりますね。
私にとって、20年以上、私を育てていただいた古巣の神戸メンタルサービスを離れることは、ことのほか、大きな手放しでした。
小さなものをいろいろと手放したその果てに、これも一切丸ごと手放しちゃった。
こんなに大きな手放しはそう多くはないので、これで打ち止めになると思いますよね?
ところが、です。
気持ち的には、まったくその逆に振れていきました。
心の大きな部分を占めていたものを手放すと、もう何も持っていないかのように感じるので、他のものもすべて「なくてもいい」、という気持ちになりました。
もう、何もいらない。
いや、そんなはずはないのですが。
でも、あらゆるものへの執着を感じなくなりました。
自暴自棄というほど、自分を粗末に扱っているわけではなく、空の巣症候群というほど無気力でもないのですが、頓着しなくなっていました。
なるようになるさ。
手放しは、1回では終わらないんですね。
それは、手放したものが小さいからではなくて、大きなものを手放しても、同じ。
手放すものが大きかろうが、小さかろうが、本当に手放しているのは、その対象となる人やモノや環境ではなくて、
その人と一緒に生きた「私」、
そのモノを愛した「私」、
その環境で生きた「私」。
「過去の自分」がそこで死に、葬られるから、
結局、その「過去の私」にまつわるすべての人、モノ、環境が、手放す「対象」になります。
少なくとも、見直し、選び直しをすることになるのだと思います。
そして、手放した「過去の自分」に罪悪感を持っていればいるほど、総入れ替えになるようです。
仕事も、パートナーも、住処も、ぜーんぶ手放すことになるので、それこそ人生がガラガラポン!になっちゃう。
こんなガラガラポン、疲れるのに、何度もくり返すのですから、どれほど「真実」が欲しいのか、と思います。
思いを注ぎ込んでは、何かが違うと悶々とし、霧の中を彷徨い歩くー。
霧が晴れたら、注ぎ込んだ愛も悩みもひっくるめて茶番劇だと気づけますが、それは、ちょっぴりウンザリする体験でもあります。
「あぁ。私が書いた茶番劇につきあわせて、ご迷惑をいっぱいかけました」と思うと、心に痛みが走ります。
でもね、そこはお互い様なので、それ以上は深入りしなくてもいい、と思うようになりました。
手放しても、「失敗したな」と罪悪感がオートマチックに発動すると、人と距離を取りたくなって、誰かれかまわず、関係性をご破算にしたくなりますから、孤立しやすくなります。
大きな手放しをされた方、「彼」を手放したら、「仕事」まで手放すことになっちゃった、なんてことになっていませんか?「親」を手放したはずが、「家」を手放したはずが、パートナーまで捨てちゃった、とか?
大きな手放しは一つですまないことがありますから、要注意です。
全部、手放す必要があるかもしれないし、ないかもしれない。
そんなとき、ヴィジョン心理学のチャック・スペザーノ博士からいただいた「癒し」の処方箋は、
「自分の生命の誕生の瞬間に戻り、そこにあった愛の大きさを思い出す」
でした。
やってみたら、
確かに生命の誕生をもたらすほどの奇跡は圧倒的で、
罪悪感の方はシュッと消失しました。
私たちは、生まれる前はワンネスにいて、死んでのちにまたそこに戻るのだとしたら、その間の「自分」を茶番であれ、なんであれ、楽しむにこしたことはありません。
おかげさまで、人生のガラガラポンも、茶番劇も、面白がれそうですよ。
あなたの人生も、面白がれるといいですね。
love and abundance,
みずがきひろみ