愛をケチるともれなく自己嫌悪がついてくる

現在、パーソナルセッションは満席です。いつもありがとうございます。

テレワークに慣れ、これなら自由気ままなノマド生活もできるかも、と思っていましたが、駒場のカウンセリングルームでカウンセラー仲間たちと久しぶりに会えたら、めちゃ懐かしくて嬉しくて、自分が「超」がつく寂しがり屋だったことを思い出しました。コミュニティってありがたい、ですね。

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こんにちは。
みずがきひろみです。 

ダーリンの料理熱が高じて、我が家でもフルーツトマトをセミドライにすべく奮闘中。やりかけだったトマトたちを見て、

「家でテレワーク中の私の仕事かしら?」

と勝手に思い、コンベックで低温加熱と乾燥を繰り返したものの、見事に焦がしてしまい、

「やっぱりおせっかいは愛ではない」

としょげかえっています。

 

愛の匙加減って、ホントに難しいですよね。

神戸メンタルサービスに出会い、「愛する」ことを選ぼうと決めて、すでに20年以上が経過していますが、やっぱり悩むことだらけです。

「難しくてわからないことが多くて、なかなかできないのよ」

とこぼしたら、友人が、

「よかったね。 それならきっと飽きないわよ。簡単にできることはすぐに飽きるからね」

と言ってくれました。

「それ、天才的な返しだわ!」と思いましたけれど、悔しかったのでそうは伝えられませんでした。

「どうしてカーテンが閉まっていないの?」。

「パンツが足りないんだけれど、洗った?」。

「冷蔵庫の中のノリの佃煮にカビが生えてたぞ」。

そんなダーリンのちょっとした一言も、「私が、十分に家事ができていないから」と自分を責める理由にしていた頃は、時間がいくらあっても足りませんでした。

なぜならば、私が思う「気持ちいい生活のためにやりたいこと」と、「ダーリンがやってほしいこと」のすべてが、「やるべきこと」として自分の肩の上にのっていたから、です。

「愛する」ことは、「すべてを引き受ける」こと、とどこかで勘違いをしていました。

いえ。確かに「愛することはすべてを引き受けること」に違いないのですが、それを「私がすべてをやらなければならない」と思い込んでいたことに問題がありました。

実際には、そこまでできないので、結果的に、自分を責めるか、ダーリンの「注文が多い!」と文句を言うかの二択になるのでした。

当時のダーリンの口ぐせは、「なぜ、こっちに頼まないのだ?」で、さもありなん、私の中に、「人をアテにする」という発想が、そもそもなかったのです。

自分が「手を動かす」ことが「愛」だったときは、やってもそれは相手の望むものではなくて、自分の自己満足にすぎなかったり、相手のニーズを引き出しすぎてしまい、自分の首を絞めてしまうこともありました。

よく、やってもやっても報いを受け取れないことを「犠牲」と言いますが、振り返ってみると、相手のニーズがわからなくて、頑張ったのに喜んでもらえなくて撃沈していましたね。

「与える」ことがまだ下手っぴーだったのだと思います。

ここでの問題は、うまくいかないから、がっかりして傷ついてしまうこと、でしょうか。

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「もう犠牲はしないもん!」と変な開き直り方をするんですね、こういうときって。

確かに「犠牲」はしなくていいのですが、怒っているのでハートも閉じてしまいます。

そうすると、「愛をケチる」んです。←これがイケナイ。

相手のニーズを満たそうと意識を「相手」に向けていたのを、急旋回させて、自分の都合でしか動かなくなります。

ムリした分だけ、喜んでもらえないと、ソレナライイヨ、とむくれる。

すると、相手のニーズがさらに見えなくなりますし、見えても「自分でやってもらえばいいわ」とスルーするクセがつきます。

私のニーズだって拾ってもらえていないでしょ?(この場合の「私のニーズ」は、やったことを褒めて認めて欲しいなのですが、これが相手のスイートスポットに入っていないので、相手は、ソレがわかっていない。←相手もスルーしていた、無自覚ですけれど。)

要するに怒っているのです。

この辺りで、見事に「ケンカのステージ(パワーストラグル、とも言います)」に突入します。

ホットなケンカが続きますが、この時は、お互いに「相手にわかって欲しい」という情熱もあって、かなり頑張るんです。

エネルギーもいっぱい使います。

いっぱい傷つき、疲れ果てます。

そして、さらに引きこもります。

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引きこもっている、ということは、ハートを閉ざしている、ということ。

ハートを閉ざしている、ということは、怖がっている、ということ。

怖がっている、ということは、「愛していない」、ということ。

これ以上傷つきたくないから、ハートを閉じるのですが、ハートを閉じているときは、相手が自分を傷つけるようなことを言わないだろうか、やらないだろうか、と警戒心満載なので、人を愛しにくいのです。

心の中は警戒警報発令中なので、誰かが「優しい」言葉をかけたり、思いやりを差し向けてくれたとしても、「裏がある」ように感じてしまい、素直に受け取れません。本当は、一番欲しいものだったりするんですけれど。

自分が拗ねていることも、人を試すようなことをしてしまうのも、心のどこかではわかっているので、そんなときは自分嫌いが加速しますね。

行動でいえば、「遠慮」が多くなるようです。

そのとき、脳内では、「私なんかが、そんなこと言うのは生意気ではないかしら?」とか、「私が手を出すとかえってややこし
いことになりそう」とか。

何かにつけて「ご迷惑でしょう?」マインドになるので、気づいていても、手も口も出ませんし、そのうち気づかないようになります。

罪悪感には二種類あって、やって失敗しちゃった罪悪感(このブログの上のセミドライトマト!)と、やらなかった罪悪感があって、「遠慮」が多くなると、この後者の罪悪感が、どんどん膨らむのです。

そんな時に、ダーリンがのんきに、

「あの自治会のお知らせはどうした?ロミがファイルしてくれると思ったのに、、、」

なんて言おうものなら、心の中は、

「◯×△!」みたいなことになります。

頑張ってやりすぎると「犠牲感」に溺れ、

見守るつもりが引きこもると「遠慮」になり、今度は、罪悪感に苛まれる。

そんな経験を繰り返していらっしゃいませんか?

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ダーリンが出社したあと、イマイチ水分がとんでいないセミドライトマトの出来損ないを見つけて、ちょっとだけ迷ったのです。

「帰宅したら続きをやるつもりなのかな?」と。

放っておけばいいのかしら?

それとも、手を出した方がいいのかしら?

料理はダーリンの趣味だから触らずにと思っていたら、「味を見て、仕上げて欲しかった」と言っていたこともありましたっけ。

というわけで、リスクをとったら焦がしちゃった。

「ゴメン。焦がした」とLINEを送りながら、「最初から聞けばよかった」と後悔。

「全然、いい、いい!」と一笑にふされて終わった件ですが、パートナーシップ、アルアル、ですよね。

どう愛したらいいのか、ああでもない、こうでもないとよく頭の中でこねくり回しますが、多くの場合は、コミュニケーションが足りていないだけだったりします。

「聞けない」のも、「遠慮」の一つ。

怖くて、ハートを閉ざしているのです。

ハートを閉ざしているとき、私たちは愛をケチっています。

愛をケチるともれなく自己嫌悪がついてくるから、

そして自己嫌悪はオートマチックに人を遠ざけるから、

いつまでたっても幸せになれないように感じてしまいます。

傷つくのは怖いから、ハートを開きっ放しでいるのは誰にとっても難しいことですけれど、

本当は、それが一番、幸せでいられるんですよね。

自分を知り、自分を好きになれれば、人生はもっと楽しい♪。

今日も、幸せ。明日も、幸せ。そんな、ずっと続く幸せを見つけられますように。

love and abundance,
みずがきひろみ

追伸 自己愛について語ります。ご一緒に、自分を許して、自分を受け入れるレッスンをやりませんか?

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この記事を書いた人

みずがきひろみのアバター みずがきひろみ 心理カウンセラー・ビジョン心理学トレーナー

ビジョン心理学トレーナー。外資系投資会社で20余年株のアナリストとして活躍。離婚問題をきっかけに心理学を学び始め、2008年からカウンセラーとして活動する。14年で8,000件以上の個人カウンセリングを実施。グループカウンセリングや大人数の癒しのワークショップも多数開催している。著書に『きょうだいが苦手だ』(河出書房新社)、『母の呪縛をといてありえないほど幸福になる方法』(河出書房新社)がある。

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