人類が何千年もやってきた「祈り」の力を今こそ見直しませんか?

1月スタートのパーソナルセッションは、おかげさまで満席となりました。現在、キャンセル待ちを受け付けています。(12/22)

私は、宗教家ではありません。でも、大きな変化の時に、未来に希望を持ちたいから、「みんな幸せでありますように」と祈りませんか?「祈り」が、ネガティブな感情からポジティブな感情へと切り替えるスイッチであることを思い出せますように。

こんにちは。みずがきひろみです。

このブログに訪れていただき、ありがとうございます。

せっかく緊急事態宣言があけたかと思えば、またしても、新しい変異株がニュースになっています。不安や恐れ、またか、といったウンザリ感をもたれた方もおられるでしょう。

最後は、自分の免疫力が頼り。コロナに限らず、体調を崩さないように、私も、これまで以上に体調に気を配るようになりました。皆さまも、どうぞお大事になさってくださいね。

この2年くらい、私も、「祈る」ことが多かった、と感じます。

今日も、明日も、ずっと。あなたが幸せでありますように。

目次

何もできない。けれど、「祈る」ことは、できる。

何であれ、自分の大切な人が苦しんでいるのをそばで見るのは辛いものです。

何かできることはないものか。

自分には「何もしてあげられない」。

私たちは、愛する人がそばで苦しむのを見ると、助けられない無力感に打ちのめされます。これほど残念で、悲しく、情けなく、惨めに感じることはないかもしれません。

代わってあげられたらと思うこともあるでしょうし、助けられる人がいるならば、すがりついてでもなんとかしてもらいたい、と願うかもしれません。辛すぎて、その場にいられずに立ち去る人もおられるでしょう。

そんなとき、普段は無神論者で通していても、つい、

「お願い!神さま、助けて!」

と、心の中で叫んでいたりしませんか。

「困った時の神頼み」と笑うなかれ。

人が何千年も祈り続けてきたのには、やはり意味があるのです。

「祈り」は感情のスイッチ

心理学を学び始めたばかりのこと。当時、前夫に離婚を切り出されて、怒り、苦しんでいた私に、

「彼の幸せを祈っていただけませんか?」

と、師匠は声をかけました。

「祈る」って、宗教っぽーい!

今でこそ、目に見えないものへの許容範囲はグッと広がりましたが、当時はまだ「宗教」や「精神世界」、「スピリチュアリティ」は、いっしょくたに「疑い」の対象でしたから、

「祈る」

なんて、言葉からしてアレルギー反応を起こして、「祈ったからって、何が変わるのよ!」と、不貞腐れた態度だったことでしょう。

「人類が何千年もやってきたことだよ」。

そう言われると、本当にその通りなんですよね。きっと、私以上の、反逆児も大勢いたはずで、それでも、人は、自分の力の及ばないことがなされるように、と祈り続けてきたのです。

実際、なかなか帰宅しない夫を待つ夜、不安でいたたまれない思いになると、

「彼が幸せでありますように」

と、唱えては一歩、また一歩と、祈りながら、居間をクマのようにグルグルと歩き回りました。

息も浅く、落ち着きがなかったのが、50歩を超え、70歩も超え、100歩近くまで歩いてみると、不思議と心が落ち着いてきます。

現実は、何も変わっていないのに。

そんな体験を分かち合うと、

「祈りは感情のスイッチだからね」

と先輩が教えてくれます。

「だって、誰かの幸せを祈りながら、その人に腹を立てたり、恨んだりって難しいでしょう?」。

なるほど。

感情は、0か1のデジタル仕様になっていて、

突き詰めると、「愛」を感じているか、「恐れ」を感じているかのどちらかなのです。

「愛」を感じている時には、嬉しかったり、喜んでいたり、慈しみや愛おしさを覚えていたり、とグラデーションはありますが、総じて平和で優しい気持ちでいられます。

でも、「愛」を感じていない時は、私たちは「恐れ」を抱くようで、これも、敵対心や罪悪感、無価値感、無力感、絶望、悲しみなど、ネガティブな感情にもバリエーションはそれこそたくさんありますが、要は、「愛がない」と感じている、ということなのです。

不安で仕方がないのは、「愛」を感じられないから。

そして、その「愛」は、誰かが自分にもたらしてくれないと、自分には「ない」と思い込んでいるので、誰かに「愛されない」と、自分は立ち行かないと思い、不安で仕方がないのです。

「祈り」は、「自分発」のポジティブな感情、つまり「愛」なのです。

「(自分をふった)彼が幸せでありますように」。

こう唱えたからといって、最初から心がこもるわけではなくて、なんか嘘くさいような、偽善者っぽいうしろめたさは否定し難くあるわけで。

おそらく多くの方は、この段階でウンザリされるんじゃないかしら。

「嘘くさいなぁ」。「なかなかそうは思えないなぁ」。

それも感じながら、祈り続けていると、途中からパカンと、ハートが割れるような、扉が開くような感覚があって、少しずつ真心から祈れていると感じられるようになります。

祈りは、ネガティブな感情からポジティブな感情へと切り替えるスイッチになってくれます。

それは、見失ってしまった自分の「愛」ともう一度つながるための、心の道を開く作業だ、とも言えます。

誰かのために祈ると幸せ度は高くなる?

「自分のために祈るのではダメですか?」。

「誰かのために祈った方がいいのですか?」。

「自分を傷つけた誰かのために祈らなければいけないのですか?」。

そんなご質問をよくいただきます。

自分のために祈っていいのです。

自分を置いてきぼりにしないためにも、まず、自分のために祈ってください。

自分のために祈るのって、ちょっとエゴっぽくてお恥ずかしいのですが、私も、よく、

「神さま、早くタクシーをよこして!」

など、つまらないことに自分を運を使っているなぁ、と思います。

一番、効果的な、自分のための祈り方は、自分のふるまいや心のありようを変えたいと祈るものです。

「どうか、(恨みがましかった自分を)許してください」、

「(わがままな自分を)許せますように」など、

受け入れ難い自分を許せるようになるために「祈る」ことで、自己攻撃の手は緩みます。

「自分の言い分を主張できますように」、

「すぐに怒らずに、まずは人の話を聞けますように」など、

自分の能力を引っ張り出せるように「祈る」こともできます。

ぜひ、自分のことをもっと好きになれるように祈ってくださいね。

誰かのために「祈る」のは、潜在意識、無意識に眠っている、見知らぬ「自分」の幸せを祈ることで、それだけで、自己愛が上がります。

私たちは、四六時中、自分の心の中の「想い」を「誰か」に投影しては、その「誰か」についていろいろな判断をします。

その「誰か」のために祈るということは、自分の心の深いところにある、その「誰か」とそっくりな「自分」のために祈っているのと同じこと、なのです。

ましてや、その「誰か」が、あなたの大っ嫌いな人だとすると、それは、潜在意識や無意識レベルで、苦手で、大っ嫌いな「自分」のために祈っているようなもの、なのです。

それって、自分では「自分だ」とも思えていない、心の深いところにあるセルフイメージを「許す」作業にもなるんです。

そう考えると、誰かのために「祈る」というのは、めちゃディープな、自己愛をあげる癒し、ですよね。

私たちは、「祈る」ことを通して、自分の中にある無条件の「愛」とつながることができます。

誰かのために「祈る」ことは、自分以上に「誰か」を大切に思うことですから、自然と「大きな愛」になれますね。

私たちには、自分以上に誰かを愛したいという自己超越欲求もありますが、普段はもっと下世話な感情に心は支配されています。

でも、「祈る」ことで、そんな高い意識状態に高速エレベーターに乗って行ける、と言ったらいいでしょうか。

そして、一生懸命に祈ってみると、実は、自分も、誰かに、こんなに一生懸命に祈ってもらっていたのかもしれない、

応援してもらっていたのかもしれない、

ということに気づけます。

「愛」を受け取るのは、言うほど容易くはありませんけれど、「祈る」ことを通して、自分にもいっぱい「愛」が向けられていたのだと気づきやすくなりますね。

愛を受け取るのが苦手という受け取り下手さんは、「祈る」ことを、見直してみるといいのではないでしょうか。

love and abundance,

みずがきひろみ

*参考図書 『脳科学から見た「祈り」』中野信子著

「祈り」が「幸福感」を司どるホルモンの分泌を促進することが、科学的にも観察されています。

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この記事を書いた人

みずがきひろみのアバター みずがきひろみ 心理カウンセラー

外資系投資会社で20余年株のアナリストとして活躍。離婚問題をきっかけに心理学を学び始め、2008年からカウンセラーとして活動する。14年で8,000件以上の個人カウンセリングを実施。グループカウンセリングや大人数の癒しのワークショップも多数開催している。著書に『母の呪縛をといてありえないほど幸福になる方法』(河出書房新社)がある。

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