感情の罠(2)~それ、本当に大事ですか?~
こんにちは。
みずがきひろみです。
感情ってエゴに乗っ取られやすいってお話をしました(「感情の罠(1)~この面倒くさい「くせ者」とどうつきあったらいいのだろう?~」)。
どんな風に乗っ取られるか、我が家のケンカを事例にお話しましょう。
「正しさ」って一つのようでいて、いろんな「正しさ」があるからケンカは終わらない
一緒に住み始めてしばらく、我が家には、「お湯の温度の戦い」なるものが繰り広げられていました。きくまるで、私の講演を聴いていただいている方には「お馴染み」ですね。
ダーリンは、食器を洗うときは、60度の熱いお湯で洗いたい。彼曰く、そうすれば油汚れも、洗剤を使わずとも落ちるからエコだ、と。
私は、45度くらいの温かいお湯をたらいにためて、1-2滴洗剤を落としたところに食器をつけておき、しばらくして、さっと洗い流せばいい。家事も、仕事も、子育ても、とやることが山のようにありましたので、常に複数の仕事を同時並行でやっていた私にとって、都合のいい洗い物の片付け方でした。
別にどっちだっていいじゃないか、と思われますでしょう?
一人で住むならどっちだって「正解」ですよね。
でも、二人で住むと、お湯を出すといきなり60度の熱いお湯が出てきて、私はびっくりする。
彼は、食器をつけ置きしている時に、流しを使いたいと思うと山積みの食器が邪魔で閉口する。
ちょっとしたことなのですが、習慣が違うのが「手間」で、ストレスになるわけです。
そして、自分が変わるより、相手に習慣を変えて欲しい、と思うのです。
なので、自分のやり方の方が「いい」ことをアピールします。説得が始まるんですね。
ダーリンにしてみれば、「エコだ」とか、「速い」とか。
すると、私はどうしても、「それほどいいわけでもないんじゃない?」とケチをつけたくなるのです。
「お湯が熱すぎると、食器を持っていられなくなる」。
「だから、粗っぽくなるんじゃない?この間も、カレーの残りがお皿の裏にちょっぴり付いていたのをやり直したんだから」、とか。
ダーリンには、ダーリンなりの、もっとも効率的な、最善のやり方があります。
私にも、忙しい中、諸事を回してきた自負があります。
「正しさ」って、何を大切にするかで答えが変わるから、百万通りの「正しさ」があるのでしょうね。
「正しさ」を使って、相手を説得しようとしても、「何を大切にするか」で合意がなければ、どこまでいっても平行線です。
だいたい、「こっちが正しい」と言われた瞬間、「あなたは間違っている」と言われたような気持ちになるので、オモシロクない、です。
「正しさ」で、奥さまに自分のやり方を押し付けておられる(稼ぎのいい)ご主人さま、今は、あなたに経済力で頼らなければならないから呑み込んでいらっしゃるかもしれませんけれど、奥さまの方は、心の底で、じーっと復讐のタイミングを狙っていらっしゃるかもしれませんよ。
残念ですが、「正しさ」の応酬では、ケンカは終わらない、のです。
「正しい」ことと「幸せ」であること
たかがお湯の温度、されどお湯の温度、です。
この戦線で勝ったか負けたかが、いろんなところに飛び火します。お風呂の掃除の仕方、家事の分担の仕方、お金の使い方、、、などなど。
そして、「正しい」かどうかはともかく、「負け」がこむと、どこかでどうにか一矢報いたくなるのが人間なのです。
二人の間に不穏な空気が流れているのに、勝ったところで、一体何が得られるというのでしょう。確かに、自分のクセや習慣を変えずにすむかもしれません。が、目も合わせてもらえなくなってまで、それが大事なのでしょうか?
あなたは「正しい」かもしれませんが、それで「幸せ」になれましたか?
相手を自分のやり方に沿わせて、思い通りにふるまわせることができたとして、楽しいですか?
なぜ「正しい」ことがそんなに大事なのでしょう?
「負け」たくないのは、なぜなんでしょうね。
プライドが傷つき、怒りに震え、自分の未熟さを情けなく思い、自分なんて価値がないんじゃないか、って悲しく、惨めに思います。
どうやら、私たちは、自分はダメだと思う、ハートブレイクの悲しみとともに、この無価値観や無力感(自分にはどうにもできない)という気持ちを味わうのがどうしようもなくイヤみたいです。
ちょっと極端なことを言えば、それを認めてしまったら、自分の存在価値そのものが脅かされる、みたいな気持ちが心の底に隠れていそう。
そんな心の〈闇〉を感じるくらいなら、怒りを押し込めながら復讐を誓った方がマシ、何が何でも「勝ち」たい、になるようです。
勝っても「愛されない」。負けても「愛されない(存在を必要とされない)」。
ならば、愛されなくても、まだ存在理由がありそうな「勝ち」組を目指したい、ということでしょうか。
どっちにしても、「幸せ」な選択ではないのに。
これは、まさに「悲しみ」や「無価値感」、「無力感」を感じることへの「恐れ」が作り出す、〈感情の罠〉です。
男性は、特に、「負け」るのが苦手なようですが、女性も、男性性の強い負けず嫌いの人は、そんな〈感情の罠〉にハマりやすいですね。
それ、本当に大事ですか?
「正しさ」にこだわるのは、自分の存在理由に自信を持てないから。サクッと言っちゃうとそういうことのようですね。
逆に言えば、「正しい」のなら、存在理由もあるし、「愛される」と思っているようです。
ところが、残念ながら、そのリクツは、人生の中で何度も覆されるようなことが起きます。その度に、私たちは、「何が間違ったのだろう?」と頭を捻るのですが、そもそもの前提が、違うんです。
「正しい」から「愛される」わけではなくて、そもそも「愛されている」のに、変に、「正しさ」にこだわり、「勝ち」ー「負け」に熱を入れるうちに、「愛」がなくなってしまうのです。
存在理由や「愛される」ことを守りたくて、「正しさ」が欲しかったのだとしたら、「愛」がなくなってしまっては、元の木阿弥です。エゴの仕業ってそんなもの。
たかがお湯の温度、されどお湯の温度、です。
お互いが主張する「やり方」の「正しさ」を競うのではなくて、そもそもダーリンがお皿を洗ってくれること、お湯の温度にこだわるくらい家事を引き受けていることに「愛」を感じることができたら。そして、それを「嬉しい」と喜べたら、お互いに習慣の違いからくるストレスをそれほど感じなくてもすむのかもしれません。
「正しさ」がぶつかり合う時に、「やって当たり前」ではなくて「嬉しい」という「愛」があれば、「火傷したらかわいそう」という「優しさ」もすんなり出てきそうです。
「絶対に〇〇だと思うのよねー」。
私の経験上、そう言いたくなるときは、自分の「正しさ」を守りたいときです。
「絶対」が付くときは、要注意。ひょっとしたら、エゴが仕組んだ〈感情の罠〉に絡め取られているのかもしれません。
その、あなたの主張、本当に大事ですか?片手落ちになってはいませんか?
それで、あなたが本当に欲しい「幸せ」、本当に大事なものを守れますか?
ネガティブな感情を感じることを怖がっていると、「愛」を逃してしまうことがあります。
love and abundance,
みずがきひろみ
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